「湯治」

上場企業のサラリーマンが都会の喧騒を離れ、近頃疼く古傷を湯治しようと地方の温泉で宿泊する。温泉で怪我を癒す中で、心の古傷が疼きだしてしまう。

 

怪我と哀しみは似ている。どちらも日に日に治療していく。けがは内服薬や外用薬で治り、悲しみは日日薬で治る。してみると、心の古傷が疼く、なんてこともあるのだろうか――、湯船に浸かりつつ、のぼせた頭でそんなことを考えていた。

 

彼はある地点で、自分の中にある部分が止まってしまったようにも感じる。彼は彼自身を置き去りにして、どんどん前へ進んでいく。それは復路のないバスに乗るようなもので、彼は懸命に車窓の向こうを記憶しようとするが、結局あらゆる風景は流れすぎてしまう。

 

昨日できなかったことが、今日できるようになる。彼女はそういう時間の中に生きているのだ。

 

高橋弘希(2020)「湯治」『文學界』第74巻 第6号 132頁 文芸春秋