「アンソーシャル ディスタンス」

就活中の沙南と就職前の幸希とのコロナ禍における恋愛模様。「普通」じゃない不器用メンヘラ女vs「普通」な器用陰キャ男との戦い。

 

彼はきっといつか挫折する。初めて会ったときに抱いたその予想を裏切り続け、彼は無難に単位をとり無難にレポートを書き無難に発表をし無難に就活をし無難な会社に内定を得た。『嫌だな』、と彼はいつも言う。授業に行くのもレポートを書くのも人前で発表するのも飲み会も家に帰るのみ予約の電話をするのも勉強も就活も就職も、彼は『嫌』けど、どんなに『嫌』でも何でもそつなくこなせるし、『嫌』な世界に『嫌々』生きることができるからだ。七転八倒しながらここまで生きてきた私とは、彼は違う。人付き合いも勉強も、いやでもそれなりにできて、致命傷を負わないまま生き延びられる人なのだ。

 

どこにも本気で参加したいと思ってないくせに大体どこにでも腰掛け程度に参加して誰からも嫌われないし別段好かれもしないけどそこにいることに誰も違和感を抱かない立ち位置をキープして中身が薄いくせに小賢く世渡りしてる奴。私の第一印象はそうだった。だから彼が唐突に吐露した『自分が嫌いだ』という言葉は意外で、死ぬことを考える?という質問に『考えるよ』とこちらの反応を窺うように呟いた憂鬱さと自信のなさを滲ませた表情を見て、彼は初めて恋愛対象になったのだ。

 

私は幸希のこの普通さが、普通に幸せになることを求めているところが、この世界が生きるに値する可能性を純粋に考えられているところが愛おしくて嫌いだ。この世の99%のことが『嫌』で、人と勉強と人付き合いが嫌いで、本当はほとんどのものを見下しつつ無害な好青年を気取ってそれなりにうまくやっているところが、カーブの強い歪みを私以外の誰にも見せないところが、いい人そうで全然いい人じゃないところが、自分勝手な人に憧れながら自分は全く自分勝手になれないところが、そんな自分が好きじゃないくせに変わろうと努力をするほどの気概もなく、何となく無難に生きて死んでいく人生を予測しながら実際にそのレールを『嫌だなあ』と呟きながらとぼとぼと歩いている彼が、大嫌いで好きだ。

 

全ての恋愛は洗脳的な側面を持っている。それは宗教が恋愛に似ていることによって証明されている。くらいのことを言い返してくれるような人だったら良かったのに、幸希は弱々しく、邪悪なものと闘う気力がない。自分の意見を拒絶されてたり否定されたりすると反論もせず、この人は分かってくれない、と自分の殻に閉じこもるのだ。面倒なのは殻に閉じこもり誰とも心を通わせないまま、それなりに誰とでも問題なく付き合えてしまうところだ。 

 

コロナはそんな弱気な私を嘲笑うかのように世界に蔓延し、人々に取り憑き、今も勢いよく拡大を続けている。何もなくても日に日に死に取り憑かれ力を喪失し鬱になっていく私と違って、コロナはEDMのフェスでアメフト出身のガタイのいい男に肩車をさせ踊り狂う陽キャなセレブパリピ女のように、この世に敵なんて存在しないと本気で思い込んでいるかのように、向かうところ敵なしの勢いで人々を汚染していっている。

 

激しくとっ散らかった火花をバチバチ弾け飛ばしてふっと消える花火。沙南のことを思う時、いつもそんなイメージが浮かぶから、ずっと彼女の周りに風除けの手を差し伸べ、強い風から守ってきたつもりだった。彼女の火を絶やしたくなくて、風が当たらないように雨が降らないように生き急がないように、守り続けてきたつもりだった。 

私の心中への欲望は、ああもう色々めんどくさいし色々憂鬱だし色々不安だから全て消えてしまえという衝動に近い。

 

「一人でここから飛び降りようと思ってた。でも幸希が私が戻ってこなくて部屋で不安そうにしてる姿が浮かんだ」

「不安だったよ。もうあんな思いはさせられたくない」

「それでそのあと、赤ちゃんができたって分かった時散々不安で泣きながら、幸希と私と赤ちゃんの三人で一緒にいる姿が見えたのを思い出した。私と幸希が、赤ちゃんをあやしながら幸せそうにしてた。あの時見えた画だけが私をあと一歩の死に向かわせてくれない。これまでの自分にもこれまで気づいてきた人間関係にもどんな過去にも何の執着もないのに、あの時見えた未来だけが私に執着させる。堕胎したことが死にたい理由にもなってたのに、妊娠したことが私に生に執着させるなんて酷い話」

 

「コロナみたいな天下無双の人間になりたい」

窓に向けたカウチに座り一時間も外をぼんやり見つめていた沙南が唐突に振り向き突拍子もないことを言い出すから、えー、と呟き閉口する。

「どうして私も幸希もこんなに弱いんだろう」

「ごめん」

「何があっても死ぬことなんか考えないようなガサツで図太いコロナみたいな奴になって、ワクチンで絶滅させられたい。人々に恨まれて人類の知恵と努力によって淘汰されたい」

 

 

金原ひとみ(2020)「アンソーシャル ディスタンス」『新潮』第117巻 第6号 7-36頁 新潮社