「空から降る石、中からあく穴」

胃潰瘍で入院する作家の話。

 

低いですね

早いですね

わたしに言っているのじゃない

採血しますね

これはわたしに言っていた、声がわたしに当るからわかる

 

 

…車椅子に乗せられ移動するまさにそのときで、このときまで気がついてもいない、看護師に、

マスクはしなくて大丈夫ですか

と聞いたのだ、

大丈夫ですよ

と看護師は言った、少し笑っていたように思う、あきらめろと言っているとわたしはそれを専門家、現場の凄みと受け取った、弾丸の飛び交う戦場で、

あぶね

と弾を避け、笑う兵士を何かで見たがその凄み…

 

 

山下澄人(2020)「空から降る石、中からあく穴」『文學界』第74巻 第6号 115, 118頁 文芸春秋

大学時代

Facebookをみたら右端のカラムにオンラインの人が緑色で出てて、クリックしたら昔やり取りしたメッセージが出てきた。

大学時代の同級生ですね。

何か、こういうの読むと「大学時代 常に1人でいた」っていうのも、後々自分で作り出したフィクションなのかなと思った。

なんとメッセージで女の子に誕生日祝われてるし。

仲良い人いないなりに、誰かしらとつるんではいたのかなあって。

卒業したのもう8年前だしなあ。。。

 

僕、逆エピソード詐欺するタイプなんですよね。

思い出を下方修正する傾向にあるという。

盛らないんですよ。逆盛りですよ。

損してるかなあ。。。

 

じゃ、また。

「湯治」

上場企業のサラリーマンが都会の喧騒を離れ、近頃疼く古傷を湯治しようと地方の温泉で宿泊する。温泉で怪我を癒す中で、心の古傷が疼きだしてしまう。

 

怪我と哀しみは似ている。どちらも日に日に治療していく。けがは内服薬や外用薬で治り、悲しみは日日薬で治る。してみると、心の古傷が疼く、なんてこともあるのだろうか――、湯船に浸かりつつ、のぼせた頭でそんなことを考えていた。

 

彼はある地点で、自分の中にある部分が止まってしまったようにも感じる。彼は彼自身を置き去りにして、どんどん前へ進んでいく。それは復路のないバスに乗るようなもので、彼は懸命に車窓の向こうを記憶しようとするが、結局あらゆる風景は流れすぎてしまう。

 

昨日できなかったことが、今日できるようになる。彼女はそういう時間の中に生きているのだ。

 

高橋弘希(2020)「湯治」『文學界』第74巻 第6号 132頁 文芸春秋

久しぶり

新生活が始まり、また落ち着いてきたのでくっそ久しぶりにブログを更新。

車を買ったので通勤・帰勤(「通勤」の対義語がないの不便)時にiPodに入ってる音楽を聴いてる。

ドライブミュージックって単語を今まで肌感覚で理解してなかったけど、なるほどなと思う。

イヤホンで聞きたい音楽とまた違う感じがする感じがするかも。

それ用という訳ではないがシサシブリニ曲を購入。

流石の俺でも、もうCD買って、リッピングして~、っていう作業がメンドクサイので、iTunes Storeで買う。

Sad number/ランドリー - Single

Sad number/ランドリー - Single

  • Laura day romance
  • ロック
  • ¥458

music.apple.com

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Sansan

Sansan

  • カネコアヤノ
  • J-Pop
  • ¥2241

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出てるのは知ってて買いたいなと少し思ってたけど全然買う動作にも移さずに無視してたCDたち。

女性ボーカルのバンドばっかでキモくてごめんなさいね。。。

男性ボーカルで好きな歌手(現役)が笹口しかいないのよ。

 

また今度。

「火の通り方」

イタリアに住む友人を訪れる夫婦が、過激派によるテロや新型ウィルスに対する恐怖に思いを巡らしつつ、友達夫婦の在り方を目にすることを通して、お互いの関係性を見直す物語。

 

さらに上に目を向ければ濃い青色の空が広がっていて、まばらの雲が見え、ときどきそのずっと手前をすばやく小さな鳥や虫が通り過ぎていき、その近さと遠さを思い知る、というかそこにある無数の距離のはかれなさが知れた。

 

滝口悠生(2020)「火の通り方」『文學界』第74巻 第6号 100頁 文芸春秋

「赤い砂を蹴る」

母親の死を契機に仲を深めた母親の友人と共に、彼女の故郷ブラジルを訪れ、母親の死を受容する物語。

 

「お母さんには生きててほしかったよ。でも、もしお母さんが生きてたら、芽衣子さんともこんなに親しくならなかっただろうし、ブラジルにも来てなかったとも思う。まだ一年半しか経ってないのに、私の人生はもう、お母さんの死なしには考えられなくなってる。大輝もそう。大輝が生きてたらどうなってたのか、いまじゃもう想像もできない。ふたりの死は悲しい。なのに、その死を否定することもできない。ふたりの死は悲しい。なのに、その死を否定することもできない。それはたぶん、私自身が自分の人生を否定したくないと思ってるからだと思う。ふたりの存在を抜きにした私の人生は考えられないから。ふたりの存在を肯定するためには、死んでしまったことも全部ひっくるめて、肯定せざるをえない、そういうことなんだと思う。」

 

石原燃(2020)「赤い砂を蹴る」『文學界』第74巻第6号 73頁 文芸春秋